さをり織りとは、なにもかもを自由にした手織りです。すべて自己表現であって、手本はいらない。自分の思い通りに織ればよい。
手織り教室も全国各地にあります。手織り機や手織り糸、さをり作品、本の販売も行っております。


傷がヒントになろうとは/ ”織りのこころ”を求めて





城 みさを プロフィール/城 みさを 著 “こころの恋人「さをり」”から





教えない 引き出す/埋もれた才能がぞくぞくと





自己をみつけ自己を表現





優秀校を先に、次に…





「教えない」ということ/なんとスイスイ織れるやないか/
何回も驚かされ、何回も教えられて/ノン・クォリティ・コントロール/
先生やお母さんで、できない人はいくらでも/「共感する」ということ






着物じゃない洋服を織るのだと





「さをり」の歩み 1975~



 


傷がヒントになろうとは

 私は、私流の手織りの中で自由に泳ぎ廻っていた。”ひとりよがり”かもしれないが、楽しいのだから嬉しいのだ。
既成概念から抜け出したことへの快感を味わっていた。けれど、本当の概念破りができていたわけではなかったことに気づいたのは、帯を織り始めた時だった。
 次第に欲が出てきて、欲しかった帯を織ろうと試みた。けれど、そこには”帯”という捉われがあった。帯にならねば困るのだ、という意識が働いた。
それが私を固いものにしていた。好き勝手に織るわけにはいかなかったのである。私の織ったものは、自分でも気に入らない、つまらないものだった。
 こんなはずじゃなかったのにと悩んでいた時、近所の奥様に、「お買いになったみたいに上手に織れてますね」と言われ、ほめて下さったつもりだろうが、私はくやしかった。

 買った帯と間違えられては苦労した甲斐がない。どうすれば手織りらしくなるのか、手織りの味が出せるのか、と悩んでいた。
 そんなある日、機屋の主人がその帯を手にすると、すぐ「これは傷もんでっせ。たて糸が抜けてます。こんなもの織ったら二束三文でっせ」と教えてくれた。
 私にはどの部分を指しておられるのかすぐに解った。
 「これ、傷ですか。私は模様のつもりでいました。いつのまにか気づかぬうちに、いい模様になっていた、と喜んでいたのですよ」
 そこで私はひらめいた。そうだ、機屋は傷をつくらないために必死なんだ。私は逆に傷をつくろう。そうすれば、手織りらしくなるだろう。

 思わぬところでヒントを得たのだった。それからは、再び帯の中でたくさん傷をつくることを始めた。ただ筬目(おさめ)をとばして、たて糸を通せば良いのである。
 こんなやさしいことはない、と思った。

 その次に、私は考えた。等間隔に傷をつくれば()の帯になる。傷の太さと感覚に変化を持たせよう、と。
 そうして織った白地は、心斎橋筋の専門店の主人にほめられた。「これ、絹糸で織っていたら20万円以上(10数年前の)も価値がありますよ。
 このような帯はめったにありませんもの。欲しい人ならいくらでも出しますよ」。
 私は耳を疑った。昨日までただの素人だった私なのに、専門家以上のものが1日でできるなんて、これはどうしたことか、と。



”織りのこころ”を求めて


”ただ変わった帯”ではそんなに値がつかないはず。そこには美がある。あるとすれば、それは私の中にあったものである。
若い頃からお寺が好き、お庭が好き、と暮らしてきた私の中に貯えられていたものが今、出てきたとしか思えない。
 こんなにも簡単に自己表現ができるなんて!これは驚いた。それは一体何なのか。


 「しきたりやきまりの外で、それを無視した行為の中であったからではないか」と、またまたと考えさせられた。
 捉われから抜け出して自由に自己を生きようとするこころ。これこそが”織りのこころ”だと思った。


 本来、装うということは自己表現の場であり。”着せられる”のではなく”着る”のだ。自分の好みを、感性を、生きざまを、着るのだ。
 こう考えてきて、私は、服を買って着るという長い習慣は、本来のものではないことに気づいた。

 機械のない頃は自分で織っていたのだ。
 有吉佐和子の作品『華岡青洲の妻』にも、妻の加恵が自分の生いたちの中から産み出した感性の織りものを織って高く評価され、
 並の人との柄行の違いを見せる場面があった。昔の女は、着物の柄の創作を誇りを持ってつくり出していたようだ。
 根本はここにあるのだ。自分の生きざまを自分で表わして着るのだ。買って着るのは仮の姿なのだ。
 本物の装いというのは、「これが私なのです」と、顔と共に表現することなのだ。これこそが原点に戻った考え方ではないか。


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城 みさを

さをり創始者。手織適塾SAORI主宰。
大正2年、大阪、堺に生まれる。
府立堺高等女学校卒。
57歳のとき、「さをり」を創始。
以後その普及に努める。
無いものは「経歴と師と物欲」。
有るものは「夢と情熱と曲がったへそ」。
キライなもの「ウソつき」
主な造語として「感力」がある
■日本文化デザイン会議地域文化賞(1986)
■厚生大臣表彰(1990)
■内閣総理大臣表彰(1992)
その他多数。

ブログおばあちゃんの曲がったオヘソ



城 みさを 著 “こころの恋人「さをり」”から

近年、電子顕微鏡の発明によって人間の脳の組織が解明されたと解剖学者、養老孟司教授が『NHK人間大学』で発表されました。

すべての人間はDNAに組み込まれて、感性をもって生まれてくる。それは刺激によって増殖し自発性によってさらに成長する。しかも老いても衰えないという。

これをテレビの前で聞いた瞬間、私は跳び上がって喜びました。じっとしておれなくてひとりでに躍っていました。アルキメデス程ではないにしても。
よし、いいことを聞いた。これで安心して自分の思いを貫くことができる、と。 

私は今から約45年前の35歳の頃、そのことを体験を通して知りました。「生け花」の指導の中で…。彼女等は教える前から一人一人それなりの感性を持っているじゃないか。
教えることはむしろ罪悪だ。自分のコピーを作る行為だ、やってはならないことではないか、えらいものを見つけた、世の中どうかしているぞ…。
それが私の信念となって、深く心の中に住みついてしまったのであります。けれどそれは突然見えたものではありません。
 
25歳の頃、目から鱗の落ちることに出くわしたのが始まりでした。習った「生け花」は型を習ったに過ぎない、自然の美を活けるものではなかったと知ったことです。
そこから室町時代の世阿弥の頃の「原点」に戻ろうと、自分の中での格闘が始まりました。そこで至った結論は
「教えるのじゃない、引き出すのだ」

ということでした。余りの楽しさに我を忘れて取り組みましたが、多忙の余り遂に3年半で病を得て断念、それ以来17年間の専業主婦生活を…。
 
その後、3人の息子の独立を見て「第三の人生」とばかりに手織りを始めました。ところが、趣味のつもりの手織りの中に再び同じものを見たのです。
深く埋めたはずの胸の火が再燃しました。世の中これで良いものか、根本的な間違いを、黙って見ていることはできなかったのです。
そこに気付いて下さいよ、と一般女性に呼びかけました。
 
その時開いた「わたしの手織り」と題した講習会には、定員の10倍の申込みがあったのには驚きました。 
講演では「見本通り」「先生の真似」の中からは、「自分」が見つかりっこないことを強調しました。
私はすでに「人々の中から引き出す・おびきだす」というテクニックを身につけていました。それを織りに用いたのです。
その気にさせておびきだすという方法は、ものの見事に的中しました。 「自分の中にこんな能力があったとは!」と目を輝かせる人々が次々と現れました。
DNAの中の感性は、刺激によって増殖し、自発性によってさらに成長するという法則の通りのことを目の前で見ました。

 「教わって知ったことよりも自ら発見したことの方が数倍も嬉しい」ことを一人一人が体験しました。
「人は感動することによって動く」、それはひとりでにエスカレートしていく…。このようにして私の知らないところで、人々は勝手に自分を育てていました。
これ程凄いことってありますか?
 
くどいようですがもう一度繰り返します。先天的感性を後天的知性と一緒くたにして習うもの、と思っていなかったかどうか。
その根本を踏まえた上で、刺激により、自発性により、さらに成長することを知っていたかどうか。

答えは自分が持っている、寄せ集めの知識に頼るものではない、ことに気付いたかどうか。ここにきて、自分が自分を育てることの認識を持ちたいものです。
すでに内包されているもの、純粋の自分なのです。刺激と自発性が人を育てる、その助けをすればよい、それを助ける仕事をするだけでよいのです。

私が手を下さないで、多くのすばらしい人々を見つけ得たのには、もう一つの要素がありました。私が上手な織り手ではなかった こと。
つまり誰
の作品を見ても、凄い凄いと思ったこと、自分よりはうまいと思えたこと、これがキーポイントでありました。これが「さをり」の指導者としては、ふさわしかったと思います。
逆説のようですがそうではありません。私の思いが即、相手に伝わる。「アレッ私は考えずに織ったのに、苦労していないのに、何故?何故?何故いいの?」

「それは貴方のそのままが表現されているからです。下手な思惑やこだわりが出ていないからなのです。これが貴方なのに」「ヘエッ、そんなものなのか」と目を白黒する。
相手は自信を持つ、これでいいのだ…と。そこからの出発なのです。
 
案外、自分のことは見えないもの、鏡がなければ見えないもの。その鏡になる、正しい鏡になること、それが「さをり」の指導者のキーポイントであります。
それには、美しいものを見る目だけあればよいのです。技術は要らないのです。だから、私は上手い織り手でなくて良かったのです。


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教えない 引き出す


「これは面白い。売らせてもらいまひょ」

 ある時、三男が私にこう言った。「かなり面白いものが織れてると思うから、一度世に問うてみたら。家の中ばかりに置くのはもったいないよ」と、温かい言葉をかけてくれた。
 ようしそれではと、心斎橋筋にある老舗、「丸山」という一品物屋へ行くことを思い立った。このお店は高価なものばかりで手が出なくて、私にとっては目を肥やすためのお店だった。
 来意を告げると、女主人の机の方へ導かれた。恐る恐る机の上に取り出した数枚のショールを見るとすぐ、「こりゃ面白い。売らせて貰いまひょ」と言って下さった。
「とにかく、見本的に十枚織って来て下さい」とおっしゃった。



 洋風あり和風あり、どちらがお気に入るか、ためしに数種持って来たものだった。
「どのような傾向のが良いでしょうか」と尋ねてみると、もちろん洋風の方が良いとおっしゃった。しめしめこの方が楽に織れる、と思った。

 「私の店は、全国からヒントを盗みに来る客がいるのです。そのために高く売ります。それに、特別なお得意を持っています。
ですから、このショールをかけている人に出会われても、こんな人に売ったのかというような人には売りませんよ」とおっしゃった。

 何はともあれ、大阪の一流店で認められたことが嬉しくて、帰りは足が宙に浮いてた。今もその時のことが忘れられない。
 私は前に増やして、せっせと楽しく織った。1枚1枚がみんな異なったふんいきを持っていた。似たものさえも織らなかった。

十枚揃えてお店に持参した時、私の手に受け取った代金は、当時の大学出の初任給ほどもあった。
驚いてすぐ家に帰り、それで糸を求めた。とても持ちきれず、軽四輪で送り届けてもらうほどの量だった。
 たくさんの糸の中で、楽しく楽しく織っていた。そんなことがしばらく続いた。お金が欲しかったわけではなく、売れることが嬉しかったのである。



 やがて注文がつき始めた。「こんなのがよく売れますから、もっともっと織って下さい」と。
ハイハイと気安く受けて帰ってはみたものの、さて織ってみると、どうしても面白くなくなった。織る足が進まなくなった。
指図を受けて織ることのつまらなさを知った。
私は金もうけのためにやってるんじゃないぞ、自由が欲しいのだ、と思うようになり、お店には申し訳ないが、それっきりになってしまった。
ご恩は忘れておりませんが、私の主旨に合わなかったのです。お許し下さいと、心で詫びて。




埋もれた才能がぞくぞくと

 「ショールをいただくのは嬉しいけど、織り方を教えてちょうだいよ」から始まった人達が、素晴らしいものを始めた。
 驚いた。私以上のショールが織れたのである。
 誰にだってできるのだ、これぐらいのものは。自分だけじゃないのだ。だれにだってできるのだ。
 私も含めて、これからの人々の中に、このような能力がひそんでいたとは、想像もしないことだった。
 私は今、第1号にアドバイスをしに行った日のことを思い出す。一日がかりで、五人の方にたて糸をつくる段階から教えて、織り始めるまで手伝って、
 「どうぞお好きなように自由に織って下さい。売ってる布のようなものを織ったってつまりませんよ」と言い残して帰った。
 たった1度伺っただけなのに、みなさんは次つぎと素晴らしいものを織った。
 「5人で覚えれば五分の一ですむわけね」とはしゃぎながら、私の言うことをよく聞いて下さったのか、素晴らしい作品がつくれた。
 すごいものだと、舌を巻くばかりだった。
 私は、「負けた、負けた」を繰り返し、みんなは、「不思議だ、不思議だ」をくり返していた。「私にこんなことができるなんて、夢みたい」と喜んだ。
 そこでまた、私は考えた。どうしてこのような才能が今まで表に出なかったのか、と。
 30年前の活け花のことを思い出した。女性の稽古事のありようを思った。それを現実に見たのは、デパートの手芸品売店でだった。
 花をつくる、人形をつくる等々、教わるままに、見本通りにと、一つの形にはまった指導を受けて、まねることに終始している。
 そのために、出来上がりは立派でも、自分の想いはどこにも出せない、出す場がない。
 受けてきた教育は、社会通念は、画一的没個性をめざすものであった。これだ、自己の能力を見出せないのはここだと思った。


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禅問答のような「おしえ」に、どこまで仲間たちが取り組めるか、期待して織られてくるマフラーを待っていた1月28日。
それぞれの作品を持ち寄って200人近くも集ったろうか。春の光をさんさんと受け、ムンムンする程に、須田先生のお越しを待った。
 来られるとすぐ塾生展の部屋へ、「これは三宅一生も驚くよ」とひと言。それから張りめぐらされた順子ちゃんの作品に目をとめられ、「生きてる、生きてる、スバラシイ」と、さかんに驚きの言葉を。
「この端っこ一つとってみても額に入れればスバラシイ絵になる、城さん額に入れて作品展をなさい、面白いものになりますよ」と新しいヒントを与えて下さった。
先生のお目で確かめられたことが、何よりも力強いと感じた。

 まず私から先生のお出会いについて説明した。朝日カルチャーで先生のお話を全身を耳にして聞き入った、その後すぐ感激を手紙にしてお送りした。
それに対し先生から長文の懇切なお手紙を頂いた(『わたし革命』の目次に使わせて頂いた。)
―「この人は面白いなと思ったのは、『わたしの手紙』の冒頭に、電車の中での桜の花の編み込みスカートの話を読んだからだった」―と。
そのうち「荒々しく上品で、派手で地味なマフラーを織って下さい」とおはがきを頂いた。
「城さんは反対のことを2組並べたにもかかわらず、さりげなく難問をこなしてくれた数少ない1人です」とポツリと言って下さった。
私は嬉しかった、その上今回のお願いも快くお引き受け下さったのです。と今迄のことを。

 須田先生からは、「偶然、城さんと私は同じことを考えている人間だったのです。チャイルドなんだ。
5才から8才位の子供と同じなのだ、アダルトな人達から見れば、なんだとあれは言うだろう、けれど人間の本質はチャイルドにある、
既成概念に汚されたものの中からは真実は見つからない要約すればそのようなことを、熱っぽく長時間話して下さった。

 私が常に言いつづけていることを根本のところが同じなのだが、私の場合、機械のまねをしなさんな、自分のものを織るように、そのためには捉われるな、好きにと
表面的なことばかりを唱えているが、須田先生は、なぜそうするのかを人間の深いところで話して下さった。5才から8才までの子供の持っている純粋性、
普遍的なものであることを強調して下さった。
 2時間がアッという間に過ぎ「又、来てあげますよ」と嬉しい言葉を頂いた。



 家に帰ると、偶然今日の話を本にしたような書の本が届いていた。新井狼子著『ここにこそ書は生きている』と活字で書かれ、
その下にいわゆる金釘流で「美しいいつわりよりも みにくい真実が知りたい」と18才の障害者の文字が、私はその金釘流にひきつけられた。
上の活字は死んでいる、下の金釘流は生きている。大きな違いである。表紙をめくると「無一文即無盡藏」とある。筆者のサインである。
書家がチャイルドになるためにどれだけの苦しみを経て来られたのか、次の頁にはロダンのことばが…。

 -芸術において醜いこと、それはまがいもの、作為的なもの、表現が伴わずに小ぎれいさや、美しさを装うもの、気どったわざとらしいもの、
意味もなく笑うもの、理由もなく恰好をつけたもの、原因もなく形をねじまげ壊すもの、魂と真実を欠く一切のもの、
美しさや、優雅さを誇示するにすぎないすべてのもの。嘘をつくもの一切のことだ-ロダン

 発刊のことばの中にはこう書かれている。
-そこには人間のはだかがあり、自らの命を生き切っている姿があります。そこには優劣、巧拙、強弱等の批判をゆるさぬ絶対があります。-
 冒頭に野口の母堂の手紙、その少し後に須田剋太氏の等々、偶然にもお話の続きをここに見た想いで時の経つのを忘れていた。


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ある夜半に目が醒めて、ふと頭に浮かんだ。「知力・体力」という言葉がある。「感力」という言葉はあるだろうか。とび起きて辞書を調べた。
ない。次々と手元の辞書をあさってみた。ない、どこにもない。眼力はあっても感力はない。これは一体なにごとか。智情意という言葉はある。三つ揃ってこそである、人間は。
 なぜかなぜか。感力は競争の対象がないからなのか。その必要がないからなのか。それにしては尚更のことゆるせない。盲点ではないだろうか、ゆるせないと思いつづけていた。
私はそのことをある校長先生にお話した。
 電話の向こうで「それではさしづめ、うちの学校の生徒はみんな感力優秀な生徒ということになりますね」と校長先生の晴れやかなお声が聞こえる。
 知力体力があって感力が辞書にない。このことがゆるせない。一体これはなぜだろうか。




 優秀校を先に、次に…


 偏差値とやらでランクづけて仮に優秀校と言われている高校へ行った。行儀正しくすべてが優秀校という感じ。作品もその通りで常識的に整っている。
 教頭さんから何かお話を、と言われ吾々のめざしていることを20分ばかり話させてもらった。『4つのねがい』をかかげ、

  一、機械と人間の違いを考えよう
  一、思い切って冒険しよう
  一、キラキラと輝く目をもとう
  一、グループのみんなで学ぼう


 以上4つを柱に据えて、「あなた達は汚されていない。若いんだから、それこそ思いっきり好きなことをやって下さいよ。
 今のこの体験は基礎となって、ものを見る目を育ててくれる。ものを創る悦びを育てることができる。
 先天的にもっている自分との出会い、それを掴んで下さい。」と。みんな真剣な態度で聞いてくれました、気持ちよくまじめに。


 次は消火栓は元栓で閉めてあるという高校に行きました。近づいて来て少しためらって又来ました。その時私は派手な彼ら(障害者)の無心の作品を着ていました。
チラリと目をやって、もしも私は普通のスーツか何か着ていたとすると彼は、「このバアサン何しに来た? 帰れ帰れ」と追い出されていたかも知れません。
だけどその服に魅力を感じた。このバアサンは話せる! とみた。そして同行の若いスタッフ(引田君)に向かって「兄ちゃんこのベスト僕に貸してくれや」と言い出した。
引田君はすぐ脱いで彼に渡した。それを着た彼は一段と輝いた。金色の髪にとてもよく似合った。側に居た人達は思わず「まあよく似合う」と一斉に彼に注目した。
彼の顔は一層輝いた。やがて彼は「このベスト僕にくれや」と言い出した。「それは困る」と私。だけどなんとかしてやりたいと思ったので、先刻から黒板に陳列して飾ってあった15枚の作品を指さして、
「この中から、君の好きなのを選んでごらん、それで縫ってあげるから……」と言いました。彼はしきりにどれにしようかな、と選んでいます。
やがて「これっ」と指さしたのは、私の最も気に入っている作品でした。「あれっ私の一番好きなものを選んだ。エエイ仕方ない、今着てるのをあげよう」と言いました。
 彼は喜びました。その上に「君いい目してるよ、デザイナーになれるね」と引田君がいいました。彼の顔は一層輝きました。その顔は、さっきの彼とはまるでちがっていました。
居合わせた人達は吾がことのように嬉しくてその場の出来事に酔っていました。
 彼は喜んで転げるように走り去りました。あとで先生は小さい声で「彼は少し前に廊下のガラスを片っ端から割って行った生徒なんですよ」と言いました。

 それからの学校内の空気は大変良くなったそうであります。「廊下で会えば必ず声をかけてくれるようになりましたよっ」と。こんな一寸したことでこんなに変わるとは……。
 但しこれはN君一人の話ではないのです。私が教室へ入って行った時、前の学校のように黒板に15枚の布が懸かっていました。
 それは、色彩こそは赤と黄が少なかったが大胆さ自由さに於いて、無心の彼ら(障害者)の隣に位置するスバラシイものでした。
私はここの生徒には一言も文句のつけようはない、と手ばなしで納得。それで一言も言わずに帰りました。

 やがて1ヶ月も経った頃、広島大学で「養家研夏期講習会」の10周年があった。その時の展示をみた私はアッと驚いた。
この中に困難校の作品が数点混じっている? と思ったのです。ところがそうではなかった。
 私は悟った。あの20分の話のあと、彼らはそれを理解して、即、応用した。そのための変化であった。
これは、その頭脳の柔軟さ、彼らは優秀校の特徴をここで見せたのだ、と思った。と、次の瞬間思ったことは、既にもう困難校は初めからそれができていたのだ。
私のひとことも必要ではなかったのだ。
 感力優秀校ナンバーワンなのだ。彼たちは!


 私は又々考えさせられています。彼らはすべて感性人間、理性をよせつけないものをもっている、と思いました。
 彼らには只々、目標になる魅力のあるものを創る意欲をもたせるだけでよい。それだけが吾々の仕事である、と思っています。
 時代を先取りする直感力をもっています。教わるのはむしろこちらであります。アンテナを張り巡らせてキャッチする、そして指針を示すだけ。
彼らは意欲的に自分の好きな新しい道を見つけて行くことになると思います。
 感力を忘れていたあやまち、このつけは大きいのではないですか。知力体力もいい加減にして貰いたいものです。
 私はたまりかねて梅原猛先生に手紙でお尋ね致しました。数年前「日本文化デザイン会議」から「地域文化賞」を頂いたことがあり
何度かお目にかかっていましたので……まだお返事は頂いて居りません。
何度も言うことながら私共の小さな手に余る問題を見つけてしまったのであります。

 この年の8月広島大学での同じ夏期研修会に教育者のための講演会の一環に私にも公演の時が。
その時、幾人かの教授の方に例のことをお尋ねしましたが、どなたも知らないと申されて
「今後城さんは大いに話題にして下さい」と、逆に命ぜられました。

なぜこのような事になったのか。掘り下げれば掘り下げる程に迷路に入り込んで明確な答を見つけることはできません。
日本という国は流儀とか家元とかの制度があってヴィルスのように蔓延して感染して
本物のつかまえどころを失ってしまったためではないかと思ったり致します。

 先日も若手社長の集まる勉強会に参加し、ためしに質問してみました。「皆様の中で先天的に感性はもって生まれてくるということを知って居られた方は?」と。100人位の中でたったお一人でした。有能な知識人とお見受けする中でたった一人は驚きました。とすれば殆どの人はそのことに気づかず暮らしている。
知力体力感力と3本の足で立たねば倒れる。養老孟司教授は電子顕微鏡によって証明された、とおっしゃったと思う。
人はそれとは関係なく人であります太古から。どうもがてんが行きません。
 結婚という大問題、これも感力から始まります。人と人との出会いそれも同じ。物との出会いそれも感力であります。生活の中の、可成な部分は感力。
それなのに辞書にない。私のやってる仕事も感力が中心であります。感性という言葉で代用されないものがたしかにあります。有識者の先生に訴えたいところであります。



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あ いま、全国各地で「さをりひろば」というのをやっています。
障がいを持った人もいる、一般の主婦もいる、娘さんもいる、男も女もいる、そういう教室を「さをりひろば」って呼んでいるんです。
で、さをりひろばの運営の三原則というのがあります。
「教えない、共感する、親子でやる」。これが3原則です。




 *「教えない」ということ


 
私たちは、障がいを持っている人に接する時に、彼や彼女らを劣った存在であるとか、リハビリテーションが必要であるとか、
 訓練が必要であるとか、いう前提に立ちません。むしろ、訓練する必要もない、リハビリテーションする必要もない、と考えます。
 別の言い方をしますと、「下に見ない」ということです。私らと同じレベルか、あるいは場合によっては「上に見る」というところがあるわけです。
 下やと思ったら、「ちょっとくらい教えたろか」という気になるけど、上の人に教えたろかって言うたらおこがましいでしょう。
 だから、「教える」とか、そういう姿勢をとりません。

 1つ例をあげましょう。私たち、「教えない」っていうのに、こういう意味をこめているんです。


 小西万里さんの例をあげます。万里さんは、まだ若い18歳ぐらいのかわいい娘さんなんです。
 万里さんにね、「好きな糸持っといで」って言うたら、教室には手織り機が置いてあって、その隣の部屋に糸が置いてあるんですけど、
ほんなら、そこへひょっこひょっこ行って、糸をたくさん抱えて、ヒューっと帰ってくるわけね。ニコニコ笑うて。
 すると、お母さんが向こうのほうで織ってるんですけど、お母さんと目が合うんです。これが不思議と目が合う。
目と目が合ったその瞬間に、万里さんは、なんも言わんとシュンとするんです。
 そこで何が起こったかを、私は瞬時に判断しました。私の独断と偏見ですが、間違いないと思います。
 お母さんは、「万里、またそんな糸持ってきて。もっと違う地味な糸もっておいで」ということをピッと信号を送っているんです。
そしたら万里さんは、ちゃんと理解するわけです。
すごいですねぇ。口では言わへんでも目でピッと聞かすことができるって、立派なお母さんやと思います。

 しかし、笑いごとやない、これが事実としてあるんですよ。障がいのお子さんをもった親子関係っていうのは、それほどに密接なんです。
 だから私、小西さんにいつも言うんです。「口に出すな、指示するな」って。
「私は何も言うてない」「お母さん、あんたは、思うてもあかんのや。あんたが思うだけで伝わるんやから」
 ほんまですよ、思うたらあかんのです。あの子らも、こんだけ敏感なんです。私らの思いなんて見事に読まれてしまいます。
 そやから、指導するもんは、「あぁ、またあんな糸持ってきて」と思うたら、もうあかんのです。



*何回も驚かされ、何回も教えられて

順子さんがそうやった。とにかく好きなん。
 繰り上がるでしょ、作品がね。ええのできたなって、みんなでウォーって言うてるわけ、教室中がウワァーウワァー言うてるわけ。
そしたら、順子ちゃん、おらへん。どこへ行ったかと思うと、次のたて糸やってる。あれには、びっくりしました。
 じゃぁ、自分の織ったもんに執着心ないんかなぁと思うてたら、絶対違うんです。それはね、ある時、仕立てて、服をつくったりしてたんです。そ
うすると糸の端が残ります、どうしてもね。その切れ端を捨てようとすると、おこりだすんです。きちんと自分のものを覚えているんですね。
それぐらい、やっぱり執着ていうか、自分の作品というのがビシッと頭の中に入ってる。これには何回も驚かされるし、何回も教えられて、私ら「すいません」と謝ってる。
ちゃんと謝ります。ほんとに、そういうふうに教えてもらっています。だから、「教えない」という意味はそういうことなんです。



*ノン・クォリティ・コントロール

ここで、さをりを教えている人もいらっしゃると思うんですけど。
 だいたいは、横についてね、「あぁ、それ足踏み間違うてる。あぁ、そやない。上からまわってくるまた、一方通行でやって・・・・。
それ難しいから、こっち。左手の糸違うやろ。右回して足踏んで、ハイハイとたたいて・・・・・」って。
 ほんとに、こうやってるんですよ。たくさんの施設でこうやってるの、よく知ってます。

いま、日本中で700の施設がさをり織りをやってるんですけど、私は650ぐらいはそれをやっているだろうと思ってます。
 「教えない」という意味は、ほんとうにその人の人格を認め、その人は自分でやりたいようにやる。そういうのじゃないでしょうか。
「教える」ていうのはね、自分のほうが偉い思ってるから教えなあかんと思うんですよ。
 ほんとうに「教えない」ということは、「品質管理をしない」という意味なんですよ。


 私は、ワシントンで開かれたベリー・スペシャル・アーツの大会で発表した時に、
 「ノン・クォリティ・コントロール」っていう言い方をしたんですけどね。
 「教えない」ってことを「品質管理をしない」っていう表現をしたんです。

 みんな品質管理するんですよ。そんなもんつくってたら売れへんとかね。売れるようなもんつくらせなあかんと思うんです。
 お金にならへんかったらあかんみたいに思うてるんですよ。
 そのくせね、お金にならんでもええんや、その子の生き甲斐になったらええねん、という原則をいつも言うんやけど、
 いざ、さをり織りを始めると、材料費もかかるしっていうふうになるんです。
 材料費もかかるし、なんとしても売れるもんつくりたい、そやさかい「教える」っていうふうになるんです。


 しかもね、それは本人のためや、と信じてるんです。そこが一番怖い。でも、本人は、そんなふうに思うてないかもしれない。
 そやのに、売るためとか、材料費がもったいないからとか、仕立てをするためにとかいうふうにして、どんどん品質管理をしていく。「教えて」いくんです。
これはもう、ごく普通に、先生や親がいっぱいやってることです。だから、私らはそういうのをはずしていこうと。
 別の言い方すれば、この頃は、「自己決定」って言われますけど、自己決定の機会をどう、どれだけ増やすかが勝負やと思うんです。
例えば、糸を選ぶとか、何色にするかとか、何をつくるかとかいう時に、先生や親が決めたらあかんと思うんですね。



*先生やお母さんで、できない人はいくらでも

うちらの教室に来る。そしたら、お母さんが「あいさつしなさい」って言います。で、まず、「服脱ぎなさい。暑いやろ」でしょ。
そんなもん強制するなって言いますよね。もう20歳過ぎた人に、あいさつせいの、なにせいのて、別にええやんと思うんね。

 そして、お母さんが全員おっしゃるんです。100人来たら100人ともおっしゃる。
「うちの子に、できるでしょうか?」って、必ず質問がきます。私らはその時、必ずこう言います。
「はい、この人はできます。だけど、お母さんはできないかもしれません」
 そんなら、お母さんもびっくりするわけですねぇ。そんなこと言われるとは思ってないから。

 けど、それは本当です。先生やお母さんで、できない人はいくらでもいます。自分の意志でやることができない人がいるんです。
人に教えてもらわんとようせん人いっぱいいるんです。「先生、この糸とこの糸合うでしょうか」とか「先生の織ったそのマフラーつくりたいんやけど、その糸はどの糸ですか?」とかね。
人の真似しかでけへんかったり、人に教えてもらわんとでけへんかったり、いっぱいいますよ。そういう人は自己決定していない。

 ところが、彼や彼女らに、「自分の好きなようにやんなさい」って言ったら、必ず自分でやります。先生やお母さんさえいなければ。ほんまにそうですよ。
先生やお母さんが横でギュッとにらまへんかったらね、全部自分でできるんですよ。そういうふうにね、自分で研究するんです。
 わずかなことやん。しかも、命取られたりしません、さをり織りで。だから、やらせてあげたらええんですわ。なんで、ラメ持ってきたらいかんのですか。
ラメが好きやったら、ラメでもよろしいやん。ラメ持ってきたら水商売みたいになるとか。よろしいやん、水商売が好きかもしれません。

 「教えない」っていう意味は、そういうことも全部含めて考えていただきたいと思っております。
 こう言えるのは、これ全部、実際に私らがやっていることにすぎないからなんです




*「共感する」ということ

これがまた難しいんですよ。だって、何に共感するねんってのがあるし、共感の仕方もですね。
 共感するのに基準がいるんです。私はどうしてるかっていうと、その作品が「生きてる」か「死んでる」か、ということで決めます。
「もの」ではなく「こころ」が表現されているもの、生命の輝きに溢れているなと感じたものに共感します。

 それから共感の仕方ですね。まず、口で共感する。「あぁ、ええねぇ。素晴らしいねぇ」って。これはまぁ、よくあるやり方ですね。
 私らは、もっといろいろあっていいと思っています。例えば、私らは、こんなやり方してます。「ええのできた」って、こうやるでしょ。
「あ、持って持って持って」って自分で持たすわけです。「ええのできたわぁ」って拍手したりとか、みんなでワーっとやりますね。
それを写真でパシッと撮ってあげる、もう華やかに。ほんなら、「わぁ、写真撮ってもろたぁ」と思うて、やっぱりうれしいもんですよ

 まぁ、わかりますよねぇ、ぼちぼち終わりそうになってきたら。そしたら「カメラ、用意してくれ」とか言います。しかも、だれのカメラマンがええとかね。
うちにちょっとハンサムな若いのがいるんですけどね。灰掛さんっていうんですけど、名前もおもしろいけど、言うこともおもしろいんです。「灰掛さん、カメラある?」とか言って、もう始まっちゃう。
 みなさんも、もうあと10センチとかなったら、もう心待ちしているわけです。写真で撮るっちゅのは、もうみんなにワーッと注目されるし、うけます。

 ファッションショーの舞台に上げるっていうのも、私らのやり方の一つなんです。テレビの画面の前に出すっていうのも、そうです。あるいは、作品展を開くっていうものも、そうです。
 個展でもやってみなさい。どんな人でも自信つけますよ、ほんと。ちゃんとしたギャラリーで、きちんと見せるんですよ。案内状もちゃんとつくって、カラーで印刷して。
彼や彼女らの作品は十分にそれに値するもんがいっぱいあります。

 さっきの足立由佳さんはそのあと、どんどん作品をつくって、三木市の美術館で個展を開いたんです。美術館ですよ。絵とさをりの展示をしました。NHKで30分番組もやりました。
 いま、明石で教室を開いています、お母さんと一緒に。20人ぐらい生徒さんがいます。きれいな海の見えるマンションでね、いいところでやってます



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人の一生というものはおかしなものである。
大づかみなところでは動かし難い何物かに よって定められているようでありながら、その人生をどのように変えて行くかということ は、自分のはからいでできるもののようである。
有難いことに、ひとはそれぞれの価値判断 を、それなりに下す自由を与えられているように思われる。

 私は3人の息子を結婚させ、母のつとめを終えたと思った時、かねてあこがれの手織り を始めたいと思い立った。
 長いこと私は、その時機をねらっていた。なぜかというと、手織りなんてそんなに簡単 にはできないものと決めていたから、数年はかかるだろう、
それなら手が空いてからでな いと、と思ってのことだった。けれど、それは大違いだということがすぐに解ってしま た。
 数年かかると頭で思っていただけのことだった。やってみればなんのことはない、すぐ に面白いユニークなものが織れたのである。
頭で思っていたのは”伝統の織り”のことだった。私のやったのは”自分の織り”だったのである。

 自分のこれまでの生きざまが、少なくとも私なりの感性が、”織り”に形を変えて現れ 出てくるものだということを知ったのである。
つまり伝統の織りに従うのではなく、たて 糸とよこ糸によって自分の思いを表現していくつもりなのだ。
詩をつくる、絵を描く、それ と同じように、自由に捉われなく好きに織れば良いのだ、ということを発見したのである。
絵の場合、白い紙に描く、勇気のいることだ。織りの場合、たて糸がある。それに何色 が合うだろうかと試して行く。
半分できた上に重ねて行くようなもので、白い紙に筆を下 ろす勇気にくらべれば半分ですむわけだ。
たて糸に合う色を、自分の好きな感じの色を、 好きなだけ織れば良いのである。
とは言うものの、ここまでくるのには紆余曲折があった。

 機が組みあがった時、里の母に来てもらった。母は車を降りると急いで機の前に座った。 当時84歳の母の腰は伸び、目は輝き、喜々として織り始めた。
再び機を手にした母の喜びようは大変なものだった。60年前の記憶を呼び起こすのに一分もかからなかった。
 母は、女は、これほどに織りにあこがれを持っているのか。もう一度織ってみたいと言 い続けていた母に、今、やっと親孝行ができたと、うるむ目で母を見つめていた私だった。

 母は思い出をたどりながら言った。昔の娘は、嫁入り支度をみんな自分で織ったものだった。機織りは女の仕事の大事な部分であったのだ。
私が生まれた大正のはじめまで、母は織っていたのだろう。やがて機械力によって女から織りが奪われてしまった。織ることはたしかに苦労ではあったにしても、また楽しみで もあったのだ。
今の私たちは、その苦労を機械にやらせて、楽しみだけをもう一度私たち の手に取り戻すことができるのである。その喜びを取り戻したいと、母の後ろ姿を見て痛 切にそう思ったのだった。


着物じゃない洋服を織るのだと

 母の織った頃と今とでは、時代は大きく変わっている。昔の手織りは着物の類を織るもの だった。したがって、布の耳は不揃いでは困る。
打ち込みも均一に、柄も画一的でなけれ ばならないし、巾も打ち込みもきちんと整っていなければならない。
けれども今の手織りは、今着るもの、洋服を織れば良いのである。洋服の場合は着物とは発想がすっかり異なるはずだ。
布の耳を気にしたり、打ち込みを均一にする必要はない。
むしろ不揃いの方が手織 りらしく、人間臭くて良い。柄も自由に、どこにもないもの、世界に一つしかないものの方が良いわけだ。

 私はいいことを思いついた、これなら技術は要らない、素人でもできる、誰にだって すぐに織れる、と思った。
 やっているうちに、次第に私の頭の中で整理されて行った。まず頭を切り替えようと思った。

 私は人間なんだ。血の通っている人間なのだ。機械とは数等上のはずなのだ。機械のまねはしないぞ。
機械ではできないことをするのだ。人間でなきゃできないことをするのだ。 そう思ったとたん、大変面白くなった。
 好き勝手なことをした。糸が耳から出ていても平気だった。どうだ機械には出せないぞ。 私なら出せる。
時々はフリルのように耳からよこ糸を出してテーブルセンターにしたり、 椅子掛けを織ったりした。私の家の応接セットは、たちまちにして立派なものになった。

 好き勝手に織るのはとても楽しいものだった。その上に花瓶を載せてはハッとして、「生 きてる、生きてる」と思わず声を立てるほどに、生き生きしたものが織れた。
 捉われなければ、こだわらなければ、面白いように自分が表現されるものだ、という とを知った。
 けれど、それは単なる私の”ひとりよがり”であるかもしれない。たしかに既製のものの後ろを追わず、好きに織っていて楽しいし、自分らしさが現れていることはたしかだが、
果たしてこれが織りものといえるだろうか。単なる物好きの仕わざでしかないのかと迷いつつも、自己満足の状態であった。
それはちょうど夜が明け始めて、あたりの景色がおぼ ろに見え始めた、夜明け前の有様のようなものだった。


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「さをり」の歩み
1968年 2月 城みさを手織機を自作。母に教えを受け帯などを織り始める。
1969年 1月 自作のショール等を大阪心斎橋で販売し始める。
さをり
と名付ける
1970年 3月 織りを楽しむグループができる。
織機を増やし、本格的に指導を始める。
1972年 3月 産経学園を最初に、教室を各地で開催。
そごう百貨店神戸店で展示販売会を行う。
以後、大丸・西武・東急・名鉄・鶴屋・三越・高島屋・阪急で開催。
4月 初めて朝日新聞(全国版)に記事が掲載される。
6月 グループさをり京都で発足。(以後、さをり会として発展する。)
10月 第1回グループ展(春秋館画廊)開催。
「ラカム」(文化出版局)
に掲載される。
1974 4月 『現代手織り さをりテキスト』出版
1975 8月 『SAORI リポート』創刊。(以後続刊。2005年4月現在、350号発行。)
1976年 9月 現代手織協会設立
1977 3月 『私の手織り(中経出版)』出版
1978 7月 東京 代々木に東京教室開設
1979 3月 大阪 中津に手織適塾さをりオープン。(現代手織研究所設立。)
8月 ファッション・ショー(大阪:南森町アルキメデスの時間)開催。
11月 ファッション・ショー(大阪:阪急オレンジルーム)開催。
1980 4月 手織適塾さをり横浜オープン
7月 第1回障害者のための手織り教育研究会開催。(以後開催。)
1981 3月 ポートピア'81(神戸)国連1号館に展示(6ヶ月間)、国連から感謝状をもらう。
1982年 3月 さをりひろば設立。(現在、NPO法人さをりひろばとして活動中。)
10月 10周年記念パーティー開催。
『わたし革命(神戸新聞出版・絶版)』出版
1983年 2月 城みさを、NHK「おはよう広場 おんな西東」出演。
初の写真集、『フォトレポートⅠ』出版
7月 東京フェア'83(東京:青山ダイヤモンドホール)参加。
11月 日本文化デザイン会議'83(神戸)に於て、メイン会場1000坪の周囲の壁面を織物で埋めるというパフォーマンスを行い、内外に高い評価を得る
1984年 2月 さっぽろ雪まつり(北海道)でファッション・ショー
4月 手織適塾さをり名古屋開設
5月 中之島祭り(大阪)参加
1985 3月 シアトル桜祭り(アメリカ)参加(3名)。
7月 第1回無心に織る展開催。(以後毎年開催。)
国際婦人年世界大会(ケニア・ナイロビ)参加(4名)
1986 8月 『さをり織り好きですねん~ 障害者に手織を~(ぶどう社・絶版)』出版
10月 15周年SAORIの祭り(中之島公会堂)にて500人のウォーク・スルー・ショー
日本文化デザイン会議 '86(広島)地域文化デザイン賞を受ける
1987 8月 天王寺博覧会(大阪)出展及びファッション・ショー
1988 3月 『SAORIフォトレポートⅡ』出版
9月 第16回リハビリテーション世界会議(東京)参加
12月 「障害者の日の集い」(大手町サンケイホール)記念講演、ファッションショー
1989年 6月 ベリー・スペシャル・アーツ(VSA)世界大会(ワシントンDC)参加(36名)。
9月 私の手織り』改訂。
『SAORIフォトリポートⅢ』出版記念パーティー開催。
18周年SAORIの祭り(中之島公会堂)ファッション・ショー・対談
1990 4月 第1回国際障害者の為の手織り教育研究会(神戸しあわせの村)開催、13ヶ国35名の参加
7月 花の緑の博覧会(大阪)参加
無心に織る展inソウル(耕仁美術館)開催。
12月 城みさを、厚生大臣表彰を受ける
1991 5月 さをり20周年記念祭(MIDシアター、ホテル・ニューオータニ大阪)開催。
8月 第3回アビリンピック(香港)参加。銀メダル受賞、皇居にて皇太子殿下に拝謁
11月 VSAフェスティバル(台湾)参加(13名)
1992 3月 日本初の障害者芸術祭となる、とっておきの芸術祭(大阪)開催。
第2回国際障害者の為の手織教育研究会(大阪)開催、8ヶ国19名参加
11月 VSAフェスティバル(インド)参加(15名)
12月 城みさを、内閣総理大臣表彰を受ける
1993 1月 『みんながダイヤモンド(松香堂)』出版
3月 さをり・リーダーズ・コミティー設立
10月 国連アジア太平洋障害者の10年国際会議(沖縄)参加
『フォトリポートⅣ』出版
1994 2月 ワークショップ(シンガポール)開催。
5月 VSAフェスティバル(ベルギー)に参加(32名)
7月 織る創る着る(編集工房ノア・絶版)』出版。
アジア太平洋障害者の10年国際会議(マニラ)参加
8月 とっておきの芸術祭in熊本開催。
9月 さをりワークショップ(シンガポール)開催。
1995 5月 『SAORI 仕立ての本』出版。
6月 城みさを、NHKラジオ深夜便「こころの時代」出演
7月 全国さをり織協同組合(CO-OP SAORI)設立
手織適塾さをり京都開設
8月 プロのモデルを使った初めてのさをりファッション・ショー(シンガポール)開催
9月 とっておきのさをり(ぶどう社)』出版
とっておきの芸術祭inみやぎ開催。
12月 第1回とっておきのさをり展(大阪MBSギャラリー)開催。(以後毎年開催。)
1996年 2月 手織適塾さをり神戸開設
4月 さをり25周年の集い(コンポホール、ロイヤルホテル)開催
6月 さをり in CANADA (ビクトリア)開催、19名参加。
7月 『こころの恋人 さをり』出版
11月 セニアさをりプログラムスタート
1997年 1月 手織適塾さをり仙台開設
4月 高齢者のための手織り講習会(大阪)開催。
5月 『感力へのめざめ』出版
国連ESCAP会議(タイ・バンコク)参加、ワークショップ開催。
6~8月 ワークショップ各国で開催、ケベック(カナダ)・ニューハンプシャー・ニューヨーク(アメリカ)・ペナン(マレーシア)と続く
9月 アジア太平洋障害者の10年国際会議(ソウル)参加(40名)。
無心に織る展in ソウル開催。
高齢者のための手織講習会(シニアワーク東京)開催。講演・ファッションショー
11月 手織適塾さをり船橋開設
1998 1月 ひらかな服展・無心に織る展(東京・青山・表参道・六本木)開催。
3月 アートパラリンピック長野参加(120名)
ワークショップ(香港)開催。
4月 国連ESCAPさをり展(タイ・バンコク)開催。
5月 手織適塾さをり大宮開設
VSAフェスティバル(ブラジル)参加
6月 ワークショップ(イギリス・トットナス)開催。
8月 RI アジア太平洋障害者年会議in香港参加(40名)。
9月 育成会全国大会(岐阜・下呂)基調講演、ファッション・ショー
10月 まなびピア(兵庫)参加
第7回全国在宅ケア研究交流会in大阪参加
11月 ねんりんピック(愛知)参加
タイ・ソーソートーSAORI塾(バンコク)開設
1999 5月 アジア太平洋VSA フェスティバルin OSAKA'99(堺・大仙公園)開催。
6月 VSAフェスティバル(ロサンゼルス)参加(65名)
7月 第4回世界高齢者連盟(IFA)国際会議(カナダ・モントリオール)参加
8月 さをり織り指導者養成講座(香港)開催。
11月 アジア太平洋障害者の十年 推進NGO会議(クアラルンプール)参加
2000年 1月 さをり織り指導者養成講座(香港)開催。
さをり会館(大阪・中津)オープン。
さをり集ぎゃらりいも併設
4月 さをり30周年記念の集い開催。
さをり指導者養成国際ワークショップ(大阪)開催。
5月 池田城イベントSAORI VEGA 2000プロジェクト開催。
6月 ワークショップ(オーストラリア・シドニー)開催。
7月 Tissage & Mettisage(カナダ・ケベック)参加
8月 ワークショップ(マレーシア)開催。
10月 手織適塾さをり広島開設
11月 ワークショップ(シドニー)開催、オペラハウスにてさをり布を展示。
ねんりんピック(大阪)参加、講演及びファッションショー。
シルバーファッションコンテスト最終予選11名参加、6人受賞の快挙
12月 アジア太平洋障害者の10年 国際会議(タイ・バンコク)参加
2001年 3月 ワークショップ(タイ・香港)開催。
4月 『SAORI REPORT Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』出版
5月 ワークショップ(サウジアラビア)開催。
VSAフェスティバル(フロリダ)参加。
6月 JAPAN 2001フェスティバル(イギリス)参加、大英博物館・ウィンザー城にて、さをり布展示。
8月 KOBE2001 織りと異文化交流開催、講演及びファッションショー。
VSAフェスティバル(トルコ・イスタンブール)参加
9月 ワークショップ(モンゴル)開催。
Health Fair 2001(タイ)参加
10月 ねんりんピック(広島)参加、講演及びファッションショー。
障害者芸術祭(ベルギー)参加
初の英訳本、『SAORI Self-discovery through Free Weaving』出版
みやぎ国体参加、タペストリーをスタジアムに展示。
11月 日本女性リーダー交流プロジェクト(福島)にて展示・ファッションショー
12月 とっておきの芸術祭Ⅶ(梅田・スカイビル)開催。
さリコ東日本作品展、東からの風Ⅱ(東京国際フォーラム)開催。
アジア太平洋障害者の10年 推進NGO会議(ベトナム・ハノイ)参加
2002 1月 SAORI異文化交流カレッジ開講
手作り有名作家100人展(大阪・近鉄阿倍野)参加。
無心に織る展(東京・代々木)開催。
2月 やまびこ作業所主催さをリファッションショー(滋賀・竜王町)でダンスパフォーマンス、和服とのコラボレーション
VSAarts主催Artists in Residency Training Institute(アメリカ・アトランタ)参加
3月 手織適塾さをり神戸HDC神戸ビルへ移転、新装オープン。
SAORIとっておきの起業講座開講
4月 浴風会「第三南陽園」オープニングセレモニー(東京)参加、さをリ布がメイン会場を飾る
5月 VSA International Night Gala 2002参加、ワシントンの日本大使公邸をさをり布が飾る
第3回せせらぎ祭り(東京・渋谷)参加
7月 手織適塾SAORI和歌山(テーマパーク・ポルトヨーロッパ内)オープン
七夕吹流し展inHDC(神戸)開催、20mの布が吹き抜けに飾られる。
吹流し展inエルパーク(仙台)開催。
SAORIスペイン&イギリスツアー開催、グラナダ市訪問、サンドイッチ伯爵邸でのワークショップ他
各地の適塾で指導者養成講座開催。
8月 世界精神医学会横浜大会にブース設置
東京都立桐ヶ丘高校校外学習(不登校の生徒に対するカリキュラムの一環として)に参加。
9月 インクルージョンインターナショナル世界大会(オーストラリア・メルボルン)参加。
10月 国立民族学博物館主催世界大風呂敷展(大阪・千里万博公園)参加、10m×200本の布で建物全体を包み込みという一大パフォーマンスを展開する。
朝日新聞(全国版)に掲載。
アジア太平洋障害者の10年協賛キャンペーンVSAフェスティバルinJapan2002(大阪)開催、大阪ビジネスパーク・ツイン21ギャラリーの天井からさをり布を飾る。
フロアーで、ブース展示、その他、国際ワークショップ、リッツカールトンでのパーティー、MIDシアターでのファッションショー
全国生涯学習フェスティバル「まなびピア石川」参加。
横浜ラポール"芸術市場"に参加。
JICA・SAORIタイプロジェクトスタート。タイ・チェンマイでの青少年センターの開所式に参加
11月 SAORI in 霊山寺(奈良・富雄)開催、日本庭園を利用しての”服の形をしたアート展”他
よさこいピック高知大会参加、高知県選手団がさをりのスカーフを巻いて入場行進をする
12月 とっておきのさをり展Ⅷ(大阪・梅田スカイビル) 開催。
2003 1月 SAORIクリエイティブセンター(タイ・チェンマイ)開所式。チェンマイ王室をはじめ、多くの政財界人がパーティーに参加される。
5月 さをりの祭り in 和泉(大阪府和泉市:和泉シティプラザ)開催。
手織適塾SAORI名古屋移転
6月 支援費制度のデイサービス事業開始。
VSA Arts会議(ミソネタ)参加
7月 全国で指導者養成講座開催(11ヶ所、受講者数650名)。
10月 さをり・リーダーズ・コミティー会員大会 in 彩の国さいたま(埼玉県)開催。
12月 とっておきのさをり展Ⅸ(大阪・梅田スカイビル) 開催。
2004年 3月 第10回さをり織り高知研修会(高知市)参加。
船橋・タイプロジェクト報告会(SAORI船橋)開催。
4月 手織適塾さをり名古屋20周年記念パーティー。
国際交流事業団のアジア8ヶ国の若手マスコミ関係者25人がSAORI大阪に訪問。
花とSAORI(千葉市)開催。
城 みさを×下村 満子氏対談(東京・飯田橋:元氣プラザ)開催。
5月 写真集 『SAORI PHOTO REPORT Vol.Ⅴ』出版
さをりの森(大阪府和泉市室堂町613-1)オープン。
VSAartsフェスティバル世界大会(アメリカ・ワシントンDC)参加(37名)。
6月 さをり発祥の地堺精機産業の旧社屋、道路拡張工事のため取り壊し。
とっておきの芸術祭in高松(香川県高松市)開催。
SAORIイギリスツアー開催。
7月 全国で指導者養成講座を開催(12ヶ所、受講者数624名)
日本ダウン症協会全国大会(広島)に参加。
8月 手織適塾さをり東京リニューアル移転(渋谷区代々木1-60-5 南新ビル1F)。
COOPさをり小物作品勉強会開催。
男女共同参画社会実現のための開放ワークショップ(国立女性教育会館)開催。
9月 プロ野球オリックスの選手にマフラー贈呈。
九州さをり織り指導者研究会(佐賀県来栖市)開催。
10月 第27回全国障害者技能競技大会「アビリンピックみやぎ2004」参加。
第17回全国生涯学習フェスティバル・「まなびピア愛媛2004」参加。
11月 第4回全国障害者スポーツ大会「彩の国まごころ大会」(埼玉県)参加。
さをりinひらかた2004(大阪府枚方市)開催。
12月 とっておきのさをり展10(大阪梅田スカイビル1F)開催。
2004さをり・リーダーズ・コミティー会員大会in大阪開催。
アジア太平洋VSAartsフェスティバルinOSAKA2004開催。
2005年 1月 新潟中越地震の被災者の方々へマフラー329本贈呈。
2月 SAORI東京:施設間交流会開催。
3月 愛・地球博:市民プロジェクトに「あなたと共に紡ぎのコミュニケーション」として出展。
さをり教育研究会開催。
SAORI和歌山:指導者養成講座開催。
4月 とっておきの教育SAORI研究会inくるめ(福岡県久留米市)開催。
5月 さをりの森1周年記念パーティー。
手織適塾SAORI神戸移転
6月 第39回日本作業療法士学会(茨城県つくば市)にて、城みさを基調講演。
7月 全国で指導者養成講座を開催(12ヶ所、受講者数594名)
天皇・皇后両陛下、東京・浴風会第三南陽園をご訪問。
8月 日本ダウン症協会全国大会(東京)にて、城みさを基調講演。
仙台七夕まつりで、さをりの七夕飾りが銀賞に。
9月 SAORIクリエイティブセンター(タイ・チェンマイ)で行われてきた、JICAさをり・タイ・パートナー事業を終了。
現地の
ヒーリング・ファミリー財団に今後の活動は引き継がれる。
愛・地球博:市民プロジェクト185日間のブース出展終了。体験織り参加人数28,238名、3,005mの布が織り上がり、閉会式会場に飾られる。
2005さをり・リーダーズ・コミティー会員大会in名古屋開催。
10月 全国生涯学習フェスティバル・「まなびピア鳥取2005」参加。
第20回国民文化祭・ふくい2005参加。
城 みさを、みさを版「奥の細道紀行」へ東北行脚。
11月 大阪府とさをりひろばの協働海外技術研修員受入事業で、トルコから1名受け入れ。
12月 とっておきのさをり展11(大阪梅田スカイビル1F)開催。
2006年 1月 平成17年度大阪市NPOのためのコンサルタント派遣事業、受け入れ。SAORI若者プロジェクト発足。
2月 アメニティーフォーラムinしが9に参加。
SAORIイスタンブールツアー開催。
4月 当SAORIホームページのリニューアル。
SAORI和歌山移転。(〒640-8341 和歌山市黒田87-13 河南産業ビル1F TEL&FAX 073-475-3101)
5月 法楽寺(大阪市)三重塔の前にさをりの幡が飾られる。
6月 中国・長春市でのワークショップ開催。
藤林正子さん、堂本あき子千葉県知事にさをり服を進呈。
7月 全国で指導者養成講座を開催(12ヶ所、受講者数833名)
第6回(財)日本ダウン症協会全国大会in宮城に参加。
北米初のさをりの集い・US-CANADA開催。
岡本太郎『明日の神話』壁画前にてワークショップ開催。
8月 大阪府とさをりひろばの協働海外技術研修員受入事業で、タイ・さをりTSUNAMIプロジェクト現地メンバーを1名受け入れ
9月 SAORI in トルコ フォローアップツアー開催。
10月 全国生涯学習フェスティバル・「まなびピアいばらき2006」参加。
2006さをり・リーダーズ・コミティー会員大会in東京開催。
東京原宿にて「非常識の表現」展開催。
11月 インクルージョンインターナショナル世界大会(メキシコ・アカプルコ)参加。
12月 とっておきのさをり展12(大阪梅田スカイビル1F)開催。
2007年 1月 子どもプロジェクト開始
2月 タイ バンムアン・さをりトレーニングセンター(さをりTSUNAMIプロジェクト)オープン。
4月 福山和宏さん、杉本明子さんが、大阪府成城高校のさをり授業の非常勤講師になる
"SAORI hands"の誕生。
6月 イギリスでWorkshopを開
7月 全国で指導者養成講座を開催
アメリカ・ニューヨークでSAORI NY Conferenceを開催。
中国・北京で中日障害者芸術祭in北京に参加。
8月 SAORI Peace Weave 2007を開催(広島)
大阪府とさをりひろばの協働海外技術研修員受入事業で、モンゴル人研修員を1名受け入れ
10月 東京で、日野原重明氏、相馬雪香氏、城みさを氏による今世紀最年長トークイベント「285トーク」を開催。
2007さをり・リーダーズ・コミティ会員大会in奈良開催。
奈良県文化会館にて「奈良-わたしのなら」展開催。
11月 学びピア岡山開催。
12月 とっておきのさをり展13(大阪梅田スカイビル1F)開催
2008年 1月 新春中日障害者大芸術祭参加
2月 高知さをりひろば作品展・研修会〈さリコ地域助成金事業〉
7月 全国で指導者養成講座を開催
スペイン・サラゴサ万博でWorkshopを開催
ミネソタで第3回さをりアメリカ-カナダカンフェレンスを開催。
8月 2008さをり・リーダーズ・コミティー会員大会in仙台開催。
9月 SAORI Peace Weave 2008を開催(広島)
天皇・皇后両陛下、東京・三鷹シルバーセンターをご訪問。
10月 全国生涯学習フェスティバル・「まなびピアふくしま2008」参加。
11月 「愛・地球博 理念継承記念事業
~あなたと共に紡ぎのコミュニケーション2008~」
開催(名古屋)
SAORI International Volunteer College開講。
12月 とっておきのさをり展14(大阪梅田スカイビル1F)開催。
2009年 1月 全国縦断!織りつなぎリレー開始。
5月 さをり織機をアジアに届けよう基金発足。
7月 開国博Y+150参加。
8月 SAORI Peace Weave 2009を開催(広島)
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SAORI 概要 お問い合わせ


手織適塾SAORI
〒534-0027
大阪市都島区中野町5丁目13-4
TEL: 06-6921-7811 【06-6921-7822 (NPO法人さをりひろば)】
FAX: 06-6921-8255